決められない

このところめっきり決断力が無い。

まあ驚くほど何も決められない。

一人暮らしの物件からレインブーツを買うかどうか、アイスの味は何にするか、明日何をして過ごす?

 

数年前まで自分は決断力がある方だった(気がする)。

その時今より若く輝いていた自分だったという幻想すら抱く。羨ましい。

 

何故なのか。

ひとつは損得勘定してしまうこと。

ひとつは人目が気になること。

ひとつは因果関係を信じ過ぎている。

 

とにかく選んだことで損をしたくない。

あるいは後悔したくないのだ。

でも、今までにそこまで後悔したか?

高額なものに関してはちょっと言い難いが。

すぐ諦められないものか。

 

あっちにしておけばと思うことが怖い。

そして、その選択を間違えた自分というレッテルが塵も積もれば山となり、自己否定の一歩一歩はここからなのだ。

 

 

人目が気になるのはこれも損得から来ているのでは?

うまくやれた自分は声を大にしてSNSで叫ぶのに、失敗したかもという感情だけは絶対に人に言いたくないプライドを捨てたら、

どれだけ人に優しくできることか。

見栄っ張りの強さを感じる。

 

そのようにうまくできなかった自分のうまくいかなかった選択はやがて、運命やら人生に反映されてしまうという、宇宙思想の強さもまた感じるのである。

 

なんと強い信念!

 

ならば人生を楽しくするようにベクトルを

変えられないものでしょうか!?

 

 

ここまで言うとどうです、おどろくほど思い込みの強いこと。

それがここ数年の私を支えてきたはずなのに、

多分楽しくいれた数年を羨ましく思っているうち、何事もうまく行かなかったことは自分が引き寄せたものと思うようになってしまった。

 

そうなると地獄を見る。

これを今打っていて、あぁ、私はうまくいっていたと思っているあの数年前に執着がすごいのだと分かった。

 

このように自分を分析するよう、ブログを打っているとやや冷える頭。ばかばかしいなぁ、まぁもともとそういう人間だよ私は。と諦めとちょっと愛情のある嘲笑あり。

 

考えすぎだよなぁ、ただの。

でも書いたブログを足がかりに自分の考え方を紐解いていく感覚も好きで、どうしようもない。

 

追伸:選んだラムレーズンアイスは、ラムレーズンアイスに集中するとしぬほど美味しく食べられました。

 

 

私らしい

乗り物が好きだ。

新幹線から飛行機から日々の電車も嫌いじゃなく、車は助手席で誰の運転でも心地よく寝てしまう。

通り過ぎてゆく景色も揺られている感覚も魅力的だが、好きな理由の一つに移動時間がある。

 

短い移動時間は楽だ。電車なんかだとむしろ駅まで行って駅から目的地にいく距離の方が億劫に思う。

長い移動時間が好きである。ゆったりと余裕を持てるということもあるが、何より移動時間イコールスキマ時間なのである。乗り物に乗りさえすればそこでは限られた事を限られた時間でやり切るという使命感に駆られるのである。

効率よく、合理的にやりたい理屈人間なところがあるのでとにかく乗る前に何をしようかとワクワクしている。

 

これを打っている1時間ほど前、帰りの通勤電車でいつも乗る区間が人身事故にて遅延していると五人くらいに言われた。面倒だなーと思いつつ、なんだか楽しくなってきた私はコンビニにて時間潰しのお菓子やジュースを買い込み、ちょうど読みかけの本がかばんにあることを誰との勝負か、勝った!と喜んでいた。最近聞けていなかったラジオも溜まっていることを思い出し、ここにいる誰よりも拘束時間を充実させてやると意気込んでいたのである。

 

なので、新幹線に乗る時も飛行機に乗る時も荷物が重い。音楽のためのイヤホン、小説、お弁当、お菓子、飲み物…(そして大概余る)

 

どこに行っても楽しめるというのが利点であると自負があり、むしろそこしか無いのでは?という能天気さが私にはあるが、そこに救われて要らぬ暗い気持ちに引きずられないのだから利点と言っても許されたい。

 

さてそんなこんなで乗り換えを済ませ、問題の駅にさしかかろうとしているが、なんとあれだけ勧告を受けたにも関わらずいつもと変わりなく動いているではないか。あと13分で着くこの距離、ブログを久しぶりに打ってみて楽しいが、ほぼ全部残っているジュースを抱えて、またかと少し反省している。

懺悔

絶対に誰にも一生言わないことを書く。

 

私はサボりぐせが酷い。言うなれば逃げ癖。

これをかいている今も、職場の最寄駅まで来たところで一歩も動かずベンチで寝ていた。

 

一応、逃げたい自分となんとなく頑張ってみるか〜の自分が葛藤するのである。勝率なんと7:3。ほぼ逃げる。

 逃げてスッキリするのか?否、元来人目を気にしてばかりの性格の私なので泣きたくなるほど後悔したりする。

 

なんて情けない。逃げて後悔するくらいなら逃げなきゃいいのにと思ったりもするけれど、野生本能というかアンテナがはるのである。これ逃げたら勝ちじゃね?と思うと早速身体はその態勢に入る。そうなってしまえばもはや善良な精神などには負けない。何が何でも欠勤の言い訳を考える。

 

一度休むと言ってしまえば体は本格的にだるいし、親にもしんどいとか今日は休みだとか適当な嘘を言って自分を守る。

この癖はなんというか、病的である。

 

なぜそんなにも休みたいのか、ここで自分でも掘り下げて行きたい。

まず最もなのは、やりたくないことがあるから。やり過ごしてしまえばなんとかなるなら、なおのことやりたくないのである。締め切りの仕事が〜やらないといけない製作が〜。絶対的に間に合わない!というわけでなければ、ギリギリまでやらずに日を稼ぐ。我ながら酷い。

次に挙げられるのが、他に夢中になることがある。今はもっぱら気になる人のことばかり考えている。頭がおかしいんじゃないか?というくらいに自我を失ってその人のことばかり考え、ラインの返信を待ち伏せるためだけに時間を使いたいくらいなのである。

 

というわけで休んでもこれらの考えが堂々巡りし、結局精神が疲れ果ていつのまにか一日をろくな終わりにしない。ということは何も考えず、ただ仕事をこなすほうがよっぽど賢いのである。

そんなことは重々承知なのに、とにかく行きたくない。仕事をしたほうが絶対にいいことづくめだよ!と心の声が叫んでいる。一人に心を奪われず、自我を保って、余裕を持った仕事ができる。

だが私はそういう風に人間できてない。

できていたら、どれだけ賢いだろうか。

誰にも言えないのに、周囲に嘘をついてまで、心を疲弊させてまで、休みたい自分を、もはや肯定してあげればいいのか、鞭打てばいいのか全くもってわからない。

 

はあ。依然として帰りたい。

いろんなこと記念日

なんでもない平日なはずだった。
あるとすれば久々に地震を体感したこと。
ゆれる小便小僧とともに。

ご飯に誘われて、改めて結婚報告を受ける。
式の日取りまで聞いて、実感が湧いてきた。
結婚するのだ、一番の仲良しが。
「遠くへ行っちゃうみたい」とはまさにこのことか。嬉しいやら寂しいやら、比べて自分は…とみじめやらだが、晴れやかな姿が非常に楽しみである。眩しくて目も当てられないんだろう。

帰ると弟が呼ぶので軽くあしらっていたが、しつこかったのは理由があった。よく知らない間に大学に合格していた。薄情な姉だな〜と思いつつ大喜びの父親に空笑いしてしまった。薄情だ〜。
大学受験に合格するくらいの能力と努力があったんだなぁ…とかもう弟も大学生なのか…と夢心地でなんだか上の空になってしまった。他人事のようにすら思える。私は昔から実感というものが自分の中に起こらず溜まらず、右から左へ通過していくようであった。懸命に止めたいと思ってはいるのだが、まだその方法は見つかってはいない。

お風呂から上がると、父親が「今日は父親の誕生日」だと言うから少し驚いた。父親は自分の両親の話を避けてきたので。亡くなった経緯や理由については「うちらしいな」と弟。そういうもんか。祖父と同じ教職を選んだ私なので、そういう血を辿ってるんじゃなかろうかと不謹慎にも輪廻を感じた。まぁそんなわけないけど。

私の歴史、中々濃くなってきている。


無題


先日お誕生日会の司会をやった。
初めての司会は園長先生の登場を待たずにスタートするという盛大な出鼻のくじきようであった。トップを置き去りにする新参者とは、今考えると血の気が失せる。
その後はなんとかなったようである。ようであるというのは以後意識がないのだった。「声が震えてた」「緊張感が伝わってきた」「手紙の持つ手が震えすぎて見えなかった」などとどうやら凄まじい緊張っぷりだったようである。担任の先生に至っては「私の方がハラハラしたわ!」と迫られた。全くいい人である。

うちの園長先生は身内に大変甘いので、会議内容もよそに「福田先生の司会よかったわよ〜!声がいいわ!」とベタ褒めして下さった上に、その日の日誌に赤字で「とても素敵でしたよ」と褒め殺しコメントまでいただいた。赤ペン先生もここまでは殺せまい。

子どもみたいに嬉しい気持ちで父親に報告すると「『素敵』って言葉が素敵やな」と言われた。なるほど確かに、この上なく素敵である。(語彙力レベル2)

煌びやかだとか厳かだとか派手さも素朴さもひっくるめて自分の琴線に触れるものを表す表現として「素敵」はとても気持ちがよく、しっくりくる。
そして私の中では憧れも深く関係してくる。

ルーシー・モード・モンゴメリー著「赤毛のアン」では、アンが初めてグリンゲイブルスを訪れ、色んな景色に目を輝かせる。家の真横を流れる小川、並木道を作るりんごの樹木、そのすべてにうっとりしたように、時には両手を広げて「素敵!」と表現する。
なるほど中学生という多感な時期に私の中に「素敵」の意味を吹き込んだのは赤毛のアンであった。


そして23歳、人に「素敵」と言われる歓びを噛み締め、さらなる高みで自分を「素敵」と称賛できる大人になるべく、しかし素敵なものを素敵と言える純粋な気持ちも忘れず、
素敵な大人になりましょう。

ブログかきたい

常々思っているのだが、本当に書くことがない。

先日蕁麻疹と診断された。それはそれはもう烈火の如くかゆい!!!!全身に広がった日は地獄だった。首から足首まで浮腫が広がり、世界地図なんてもんじゃない、全て陸続き。
そしてその全てがかゆみを伴うのである。蕁麻疹、正直なめていたがすっかり病人気分になり、ハワイやらグアムの写真やらを眺めては「もう一生こんな風に心から楽しめないんだ…」と陰鬱な気持ちで引きこもり、療養ごっこしていたので本当に話題がない。家でひたすら耐久レースなのだ。

その上私は「自由度が高い」というのがもっぱら苦手である。
グラセフなんて絶対無理だね。移動だけでも歩く、走る、自転車、バイク、車から空も飛べる。絶対嫌だ。一人で家を歩きって間取りを把握する他ない。ファイファンだって分岐ルートを作られると即積みである。追加なんていらねえんだよ!チャラつきやがって!

あっこういう時のお助けマン「お題」!いいのがあるじゃないか〜なになに…今日のお題は「プレゼンしたい本」か……とくに、思い浮かばんな……………お、ランダム機能。……「プレゼント」うーーーん、苦手………次は…「最近涙したこと」………蕁麻疹………って選り好みしとったら意味ないやんけ。クソ。

人は思考し続ける生き物である。選択に至っては毎日40000回してるとかなんとか。
美しくはないが、ここまで意外とかけてしまった。本日の学び「蕁麻疹は立派なネタになる。」

以上。

4月1日

幼稚園勤めもちょうど一年。
他の人が苦労した一年とはちょっとズレて、いやだいぶズレて、先輩と担任の先生の虎の威を借る狐如く、背中に隠れるどころからおんぶにだっこ状態。
そのせいか気持ちもいつも通り。もともとの「なんとかなるやろ」精神もそろそろ病的に、どこからくるねんこの自信。

それでも、だからこそ人よりできないことがあるという自覚をコンプレックスに変え、コンプレックスを努力に変えるのです。

必死になろう私。