無題


先日お誕生日会の司会をやった。
初めての司会は園長先生の登場を待たずにスタートするという盛大な出鼻のくじきようであった。トップを置き去りにする新参者とは、今考えると血の気が失せる。
その後はなんとかなったようである。ようであるというのは以後意識がないのだった。「声が震えてた」「緊張感が伝わってきた」「手紙の持つ手が震えすぎて見えなかった」などとどうやら凄まじい緊張っぷりだったようである。担任の先生に至っては「私の方がハラハラしたわ!」と迫られた。全くいい人である。

うちの園長先生は身内に大変甘いので、会議内容もよそに「福田先生の司会よかったわよ〜!声がいいわ!」とベタ褒めして下さった上に、その日の日誌に赤字で「とても素敵でしたよ」と褒め殺しコメントまでいただいた。赤ペン先生もここまでは殺せまい。

子どもみたいに嬉しい気持ちで父親に報告すると「『素敵』って言葉が素敵やな」と言われた。なるほど確かに、この上なく素敵である。(語彙力レベル2)

煌びやかだとか厳かだとか派手さも素朴さもひっくるめて自分の琴線に触れるものを表す表現として「素敵」はとても気持ちがよく、しっくりくる。
そして私の中では憧れも深く関係してくる。

ルーシー・モード・モンゴメリー著「赤毛のアン」では、アンが初めてグリンゲイブルスを訪れ、色んな景色に目を輝かせる。家の真横を流れる小川、並木道を作るりんごの樹木、そのすべてにうっとりしたように、時には両手を広げて「素敵!」と表現する。
なるほど中学生という多感な時期に私の中に「素敵」の意味を吹き込んだのは赤毛のアンであった。


そして23歳、人に「素敵」と言われる歓びを噛み締め、さらなる高みで自分を「素敵」と称賛できる大人になるべく、しかし素敵なものを素敵と言える純粋な気持ちも忘れず、
素敵な大人になりましょう。